2015年8月21日金曜日

ANA羽田~伊豆大島線撤退!修行僧去って不採算に

ANA(NH、東京都港区)は10月25日(日)からの冬スケジュールで、旧日本ヘリコプター輸送社の時代から60年に渡り維持してきた羽田~伊豆大島(東京都大島町)線の運航を取りやめると発表しました。

《10月24日の運航をもって取りやめ》
NH1843 HND0840~OIM0920 DAILY
NH1844 OIM1010~HND1045 DAILY

(機材はB737NG プレミアムクラス=ビジネスクラス8席、普通席=エコノミークラス112席)

羽田~伊豆大島線は日本ヘリコプター輸送が1955年(昭和30年)の大島空港開港と同時に開設した路線で、ほぼ同時期に就航した羽田~八丈島(東京都八丈町)線と共に伊豆諸島の生活の足を担ってきました。当初は10人しか乗れない小型機デハビランドダブが使われ、徐々に機材を大型化。1973年(昭和48年)からは64人乗りのYS-11で1日2往復となり、子会社のエアーニッポン(EL=ANK)に引き継がれた後も、20世紀の終わりまで30年近くこの体制が続きました。

一方で、1997年(平成9年)にANAマイレージクラブ(AMC)が日本国内にも展開されるようになると、その上級資格を維持できるANAカードスーパーフライヤーズクラブ(SFC)入会を目指すいわゆる「修行僧」の格好の標的にされます。当時は現在のようなANA自社便への搭乗割合やプラチナポイントなどの縛りがなく、スターアライアンス加盟社の便を1年間に50回搭乗すればAMCプラチナになれ、SFCに入会することができました(前記事「3月、バーツランが難しくなる」参照)。このため一時的に利用者は増えたものの、逆に島民の生活の足としての予約が取りにくい事態になります。折からYS-11の退役が迫っていたこともあり、大島空港を管理する東京都は滑走路を1,800mに延長してB737が離着陸できる環境を整えます。

しかし、空港が整備されたことで最大のライバル、東海汽船(東京都港区、東証2部上場)の海路も高速化の道を歩み出します。大島空港のジェット化が完成した2001年(平成13年)、東海汽船は双胴船『アルバトロス』を投入して海路の所要時間を2時間半に短縮。さらに2003年(平成15年)には水中翼船ジェットフォイル『セブンアイランド』に代替わりさせ、東京・竹芝桟橋と大島の間は1時間45分に縮まり、日帰りもできるようになりました。

そこでANAは2005年(平成17年)夏ダイヤから、羽田~八丈島線のうち1往復を大島経由とし、大島折り返しと合わせて1日2往復を維持する体制にしました。大島経由便の利用を促進するため、羽田→大島→八丈島→羽田というルートで伊豆諸島を回る『八丈島ルートきっぷ』という割引運賃が用意されたものの、修行僧以外には普及しませんでした。

2007年(平成19年)、ANAはAMC上級会員への昇格基準をプラチナポイントに一本化。修行僧追放路線を進めるようになると、大島線の乗客数が目に見えて減少するようになります。八丈島線の大島経由便は2008年(平成20年)冬ダイヤ限りで廃止になり、プロペラ機のボンバルディア(旧カナデア)Q300で1日1往復だけとなってしまいます。修行僧が去った大島線はANAグループ内でも最悪の不採算路線に転落。2014年(平成26年)、カナデア機の退役と同時に廃止される予定でした。

ところが、大島町役場がこれに待ったをかけます。2013年(平成25年)の台風被害を受けた観光産業の立て直しに期待をかけたのです。しかし、プロペラ機運航部門のANAウイングス(EH=AKX、東京都大田区)はやはりボンバルディア機を使っていた羽田~三宅島線から撤退していたこともあり、大島線のためだけに羽田にカナデアQ400を1機常置するのは非効率と判断。Q300の2倍の輸送力があるB737NGを5年ぶりに再投入し運航を続けますが、時代の流れには抗し切れません。

修行僧は1日に複数便が飛んでいる那覇~宮古・石垣といった沖縄県内路線に行ってしまい、戻ってきませんでした(前記事「修行僧追放!?JALに乗らないと上級会員への道が」「SKY撤退で離島のビッグイベントができなくなった」参照)。東海汽船は『セブンアイランド』を4隻体制にするなど強化し、その上新中央航空(CUK、茨城県龍ヶ崎市)の東京・調布飛行場線が1日3往復に増えていました。伊豆大島と本土を結ぶ輸送力は明らかな供給過剰になり、ANA便の搭乗率は10%台にまで落ち込みました。そして、今回の冬ダイヤで羽田空港の発着枠を内際問わず見直すにあたって、ANAは真っ先に廃止対象に挙げ、町役場も

「都の補助金投入や運賃のキャッシュバック、商品券配布などといった振興策にもかかわらず目標搭乗率(50%)に達しなかった。残念ではあるが廃止を受け入れる」(広報おおしま8月号4ページから引用)

と説明して、60年続いた路線の歴史に終止符が打たれることが決まりました。